2013年04月04日

【研究】卒論・修論はpublishすべきか?

すべき。


というわけでハナシは終わってしまうのだけど、それはあくまで理想論です。実際に学部・修士で終わってしまってpublishに至っていない研究なんてそれこそ星の数だけあるわけで、別にpublishできなかったからといってそのことで批判されるべき、とはあんまり思いません。『税金を使って研究させていただいているのだから』と学生に求める向きもあります。それは確かにその通りなのですが、だったら学生より先にその税金を給料として生業にしていながら一向に論文を書こうとしない教員なり研究者なりを先に批判しなさいよ、と思います。

僕も自分の卒論を査読付き論文として公表するのに5年もかかっていますし、修論なんか10年経った今でもリベンジの再実験目指して各種助成金申請書類を書いてるくらいですから、修士でやめてしまった学生さんでも最終的な目標としてpublicationを目指しているのであれば応援こそすれ、いくら時間がかかろうが批判なんかしませんよ。

ましてや研究者の道から別の道を歩もうとしている人にそんなことを強制などできようもない。だって論文書くのにどれだけエネルギーが必要かなんて自分がよくわかっていますもの。それに卒論・修論がpublishできるかどうか、ってこれはもう学生個人だけの能力の問題だけじゃなくて、教員がそこまで面倒見てあげられるかどうかってのも大きな要素だから全部自分で責任を背負い込む必要はありません。僕も卒論はかつての指導教官が最後までしっかり面倒見てくれたから出せたわけで、自分一人でできたことだとは思いません。大学院で数年間研究活動に勤しみました、ってだけで一人で論文publishまでもってけるならソイツはスゴいヤツ。だから目標さえ見失わなければいくら時間がかかろうがいい。

それに、研究者として生きていくのでなければ特に英語で論文を出すことを目標にする必要さえないのです。特に自国の農林水産業に貢献したい、という研究内容であればなおさらです。その成果を一番伝えたい相手は誰か?それがお世話になった漁師や研究者なら別に和文の論文でも何の問題もないのです。アカデミックな世界で生きたい、と望むのであれば、和文論文では評価対象として一段下に見られてしまう、そのため英文査読付き雑誌、できればIFの高いjournalに、となっているだけで、そもそも応用科学では誰に伝えたいのかが明確な分、和文の存在意義もあるのです。

英文か和文かを問わず、学部なり修士なりで就職して、特に研究者を目指しているわけでもないのに査読付き論文として自身の成果を公開することができたらそれはすごいことだ。誇ってよい。それくらいのことだから、論文を出すことに職業研究者ほどの義務感をもって当たる必要はどこにもないのですよ。その義務感で追い詰められて自分の研究内容さえ嫌いになってしまっては本末転倒です。10年後だって出せたらすごいと祝福するよ。学問の扉はいつでも開放されている。学問にも手を出せる余裕ができたとき、改めて向き合うんでもいいんじゃないかな。

ただ研究内容って時間が経ちすぎると腐るところがありますから、そのへんだけ気にしてのんびり進めればいいのだと思います。

posted by かめふじ at 17:02| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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